2018年 08月 11日
その後どうなっているのだろう?・・・2018年8月11日
――甲子園球場の「涙砂」――
この5日から始まった、100回記念の「全国高校野球選手権」が、きょう11日(土)で7日目を迎えて熱戦が繰り広げられています。
すでに26試合が行われ、いつもながら勝者と敗者の「笑いと涙」が観る者の胸に響きます。
今日で26チームが涙を流し、あるいは懸命に涙を堪えながら甲子園を後にして行きました。
ところで、敗れたチームのほとんどが、自軍ベンチ前にまかれた「砂」をかき集め、袋に入れて持ち帰っています。
この「砂」を持ち帰る慣習?が、いつごろから行われてきたのかは、諸説があるようです。
その一つが、1937年の第23回大会で、熊本工(熊本)は決勝戦で敗れ、決勝戦終了後に、熊本工の投手だった川上哲治は甲子園の土をユニフォームのポケットに入れ、自校の練習場にまいたという説。
二つ目として、1946年の第28回大会で、準決勝にて敗れた東京高等師範附属中(現・筑波大学附属中学校・高等学校)の佐々木迪夫監督が、最上級生以外の選手達に来年また返しに来るという意味で、各ポジションの土を手ぬぐいに包んで持ち帰らせた。ただしこれは米軍接収中の甲子園ではなく阪急西宮球場でのことであるが、これが新聞で記録されている最古の持ち帰りのようです。
三つ目の説は、1949年の第31回大会で、小倉北(福岡)が準々決勝で負けた後、小倉の投手だった福島一雄がマウンドの土を無意識にポケットに入れたそうで、大会後に大会役員から手紙でそれを指摘され、その土を植木鉢に混ぜ込んだ、という話が残っているようです。
(いずれもWikipediaを参照)
仮に二つ目の説を嚆矢とすると、今年の100回大会までの約70年間に、多くの敗者チームの選手が「砂」を持ち帰っていることになります。
1人の持ち帰り量が1キログラムほどとしても、長年にわたる総量は膨大なものになるのでしょう。
ところで、持ち帰られたその「砂」は、今はどうなっているのだろうか?と、暇を持て余しながらの高校野球観戦者は、敗れた選手たちと「涙」を共にしながら、ふと思ったりするのです。
この夏は「100回記念大会」として56校が選ばれています。
千葉、埼玉、神奈川、大阪、兵庫、福岡の各府県から2校の出場となっています。
例年思っていましたが、参加高校数が多い府県は1高校だけでは気の毒なことです。
これからも「全参加高校数」が多い都道府県には2校の出場を恒常化すべきを強く願うものです。
春夏とありますから、関係者のご苦労もいろいろあるのでしょうね。
いずれにしても、球児の一生懸命さが感動を与えますね。